自由に生きることが格差の元凶だという指摘について
ブックファーストで平積みにされている「無理ゲー社会」という本を読んだ。アメリカや日本の格差について書かれている本である。
自由に生きることって大事だよね?
この質問にNoという人はあんまりいないと思うし、言いづらい雰囲気もある。
かく言う私も、自由に生きたい。生きるべきだ。みたいなことを良く言っていた気がするし、リベラリストを気取っていたこともある。
※主義主張の話を振り返ってみると、私はある時はリベラルを気取り、ある時は右寄りな文芸を愛し、戦争や原爆に関しては長崎出身であることを理由に左だと言っている。そこには思想なんて呼べるものはなくて、単にミーハーなのだと思う。それを自虐するつもりも更々ないが、70年代の学生運動を仕切っていた、ある翁が「当時は左の方がモテたんだよな」と言っていて、人間なんてそんなもんじゃないかとも思う。
話はそれたが、自由に生きることの何が問題なのだろうか?
近衛さんだって自由ですよ。ただ自由には責任が伴う。それだけです。
NHKのスペシャルドラマ「白洲次郎」にて、次郎の疎開先である武相荘に時の首相近衛文麿が訪ねて来た際のセリフだ。
選択は自由である。ただし、選択に対しては何が起きても自身の責任として受け止めなければならない。
ということだ。ドラマの中で非常に格好いいセリフとして描かれている。無理ゲー社会の著者はこうした自由主義を残酷だと言う。自由主義社会においては、全て自己責任となり、
- 上手くいったら、努力のお陰
- 上手くいかなかったら、自身のせい
になると指摘している。
昔は自身の不遇を身分制度のせいにすることも出来た。また見合い制度が確立していたので、結婚出来ない男というのもほとんどいなかった。
しかし現在は全て自身の選択を原因として処理されてしまうので、互助システム=セーフティーネットが自由主義思想にはないと触れている。
自由主義の恩恵を受けられるのは、強い個体であり、弱い個体は自己責任論を押し付けられる上に互助システムまで奪われてしまうというわけだ。
考察
この書籍を読んで(全て正しいとも思わないが)皆が皆、自由主義を望んでいるとは限らないと思った。自由選択に晒されて、いつも考え続けるのはストレスになることもあるだろう。また自分の人生の意義を自分で考えて選択するよりも、信頼できる共同体と共に大義を追うような生き方もあるはずだ。
前述した強い個体とは、生存確率や生殖確率を上げられる個体のことで、現代においてはお金を持つことが重要なファクターになっている。右よりな意見だが、行き過ぎた自由主義よりも、多少制限があっても互助システムがあった方が混沌としたコロナ時代には良い気がする。その為には日本全体で豊かになる必要があるので、諸外国に勝てる強い日本企業がなければならないとも思う。
答えはないがそんなことを思った。