他人の中に生き続けるということ


19歳くらいの時「自分には何らかの使命が用意されているはず」と盲信し、

21歳くらいの時に「そんなものはない」と気づく。

初恋に破れた様な状態の僕が自身で作り出したエゴは「存在し続ける」と主張することだった。

人が人に忘れられた時に死ぬのであれば、忘れられなければ良い。

素晴らしい会社を作り、それを通じて実現しようと。

【1】

人の手が重なり合った壁画を見たことがあるだろうか?

宗教的儀式の一貫という説もあるが、人は太古の昔から生きた証を残したっかたのではとも思う。

数年前、ラスベガスのショーでスティービーワンダー本人とその3Dホログラフィーが共演したという話を聞いて、いたく感動したことを覚えている。そのうちマイケル・ジャクソンの3Dライブでもあるかもしれないと。

マトリックス的世界観で言うと、他者が存在しているということは自身の脳の電気信号に他ならない

子どもには親の遺伝情報が100%引き継がれる。朽ちる肉体をよそにDNAを複製し続けているのだ。

他人の中で生き続けたい自分にとって「他人にどう思われるか」「他人にどう記憶されるか」が重大で壮大なテーマになった。

【2】

広島で反原発活動をしている96歳の被爆者がなくなったニュースを見た。

父方の祖父は昨年95歳で亡くなっているから同じ大正生まれの人なんだと感慨にふけっていると、ふいに死んだ母方の祖父が生前「もう戦争を知ってる世代は70代以上だけなのか…」としみじみ言っていたことも何故か思い出す。あれから更に時は経ち、最早戦争は86年も前のこととなった。

多分前日に、そんなことを思ったからだろうが、今朝夢に祖母が出てきた。祖母宅のキッチンは狭かった。食卓のサイズが部屋に合っておらず、椅子を引いたら誰も背後を通れなかった。畳でも板張りでもない、古い家屋にあるような、ビニールっぽい質感の床。「おばあちゃんが久しぶりにご飯を作ってくれるのよ」と母が言う。祖母は確かにそこに立っていた。

老眼鏡で巨大化した目。白い割烹着。やや背筋が伸びているので違和感があった。嬉しいなという感情が生じた0.2秒後に「あれっ、おばあちゃんってもう死んでるよな」と思いつつ祖母を見ると、何もかもわかっている風なやや自嘲気味の表情を浮かべてこちらを眺めていた。「そうだよ」と言っているようであった。「元気ね?」と声を掛けて包容すると、祖母は半透明になりながら、キラキラと消えていった。まるで映画の様に。

目が覚めると僕は泣いていた。

【3】

ふと「あれっ、他人の中で生きるってこういうことか」と思った。

今はなき祖母によって、生きているコチラが泣かされてしまったのだ。

と同時に「こんなもんでいいんだな」と思った。

他人の中で生き続けるには、重大で壮大なことをやる必要があると考えていたからだ。

もっと言うと、祖母は決して他人の評価に左右されるような人間でもなかった。むしろ口は悪く、ナチュラルな毒舌に何度笑わせてもらったかわからない。

【4】

APOLLO11は壮大で重大な旅の末に必ずMoonShotさせる。

これは枯れることなき、自身の中2の心と起業家魂がそう叫んでいるからだ。

あと正直、戦略を知るとNo1を目指すしか選択肢はないし、それは楽しい。

会社経営はある種ライフワークみたいなものだ。

 

ただ個人としては、初恋破れた末に出来た哲学の呪縛をそろそろ開放して、もっと柔軟に考えてもいい気がしてきた。祖母の様に人と関わりたいと思うし、色んな感覚や感情を表現したいなとも思う。

取り留めないが、日記なのだからこんなものだろう。締りが悪いのでこう結ぶ。

チャンチャン。