(3)選考が大荒れした直木賞受賞作「テスカトリポカ」を読んで
またまた前回に引き続き。
資本主義は罪深いものなのか?
ブラッドキャピタリズム(血の資本主義)で犠牲になっているのは、多くの場合貧しい者や無戸籍の者、社会的弱者である。
格差は昨今、論点としてよく目にする。
ただ血の資本主義に登場する様な人を格差問題の中で意識することはほとんどない。
文字通り見えていないのだ。
見えていなかったものを顕在的に意識すると、確かに資本主義は罪深い。
では共産主義・社会主義になれば良いのか?
はたまた原始のコミュニティが理想郷なのであろうか?
ただ、どの形態も問題は残す。社会主義では個人の権利が制限され、原始のコミュニティでは日常的に戦争が起き、平均寿命が短い。
- 生存
- 個人の権利
- 富の分配
どれを優先するかによって、国家の形態は変わる。
日本の資本主義においては、ある程度生存と個人の権利が認められている。
弱者に対して最低限の補償をするという点においては、もしかしたらよく出来たシステムなのかもしれない。
世界も含めて考えると、生存も個人の権利も富の分配もない地域もあるだろう。
資本主義は罪深いかと問われるとそういう側面は間違いなくある。
ただ厳然と資本主義を生き抜いている中で「競争が悪だ」という教育だけは間違っている。
それは個々人の子ども達を不幸にしてしまう。
女の子に手を上げてはいけない
と、我が息子には教えようと思っていた。
人に手を上げてはいけない理由を説明するのは哲学的で難しいと思っていたからだ。
女の子に手を上げていけないのは「かっこ悪いからだ」というファッションの問題で解決するが、人を叩いてはいけないの延長線上には、人を殺してはいけないという論点が待ち受けており、哲学的な問題になってしまう(誤解なきよう断っておくが、僕は人を殺してはいけないという倫理観をちゃんと持っている)。
テスカトリポカでは、天才的な腕で、数百人の命を救った心臓外科医が、一人の少年を轢き殺した際に「自分は許されるべきだ」と国外に逃走した描写がある。
近代国家において、この外科医は当然法で裁かれるべきだ。
何故そうであるべきなのか?
全く違うシチュエーションを用意して考察を深める。
1万年前に、100人くらいが住んでいたある村があったとする。
1週間前、ある男が村の子ども30人を救い英雄となった。
しかしこの日、狩りの最中に誤って森で遊んでいた子どもを一人射殺してしまった。
果たして、英雄は裁かれるだろうか?
逮捕・投獄や処刑されるだろうか?
…
おそらくされない。そもそも1万年前には法も、法に則った逮捕という行為もなかった。
話を元に戻す。
近代国家において、この外科医は当然法で裁かれるべきだ。
何故そうであるべきなのか?
これは近代国家の意思だ。
人民が理由なく傷つけられるような社会を作らない。
逃亡した医師の考えは論点がズレている。命のプラス・マイナスが問題なのではない。
人民が理由なく傷つけられることが論点なのだ。
こういうことは会社でもあると思う。
例えば成績の良い営業マンが何をやっても良いというのは間違っている。
プラス・マイナスの問題ではなく、論点の違いが問題となる。