去年買って読んでいない小説の読書感想文1「列(中村文則)」
我々はすべからく、逃れようもなく、人生において「列」に並んでいる。
ということを、主人公の実社会や、主人公が迷い込む精神世界での表現を通じて、メタファーし続ける小説である。
超ざっくり
大学の准教授という限られた椅子を列に並んで得ようとする主人公。
自分よりも前に並んでいる人が離脱すると思わず唇の広角が上がってしまう。
人生の目的が書いてある紙がポケットの中にあり、主人公の場合「列に並ぶこと」であった。
まるで手段が目的化したような、どうしようもない、逃れようのないカルマを前に、
最後主人公はその紙に斜線を引き「楽しくあれ」と書き直した。
珍しく
中村文則と言えば「純文学 × ミステリー」の申し子であるが、
今作は純文学的要素がかなり強かった。
つまり、我々は(=人間とは)何であるか?というテーマである。
彼は巻末のあとがきでいつも「(短文)〜。共に生きてゆきましょう」というメッセージを出している。
この小説を読んでそのあとがきに少し合点がいった。
「私たちは、このどうしようもないカルマを抱えていますが、
せめて持ちうる態度として「楽しくあれ」でいきませんか? “共に生きてゆきましょう“」
ということなんだと思う。
セクハラについて
私は本を読む際、気になった表現に線を引く。
純文学は、人間とは?がテーマであり「あるある」を探す遊びである。
そして本書にも文中に、生々しい人間感情が散りばめられている。
当然セクシャルな内容も中にはある。
ふと、これを論じたりブログで書くことは、セクハラに当たるのであろうか?
と疑問が湧いた。
文学や絵画を論じる時にセクシャルな表現は避けては通れない。
…
と途中まで書いて、公私の公では辞めた方が良いと改めて思う(笑)
前提条件をすり合わせてコンセンサスを取る作業が面倒過ぎる。
列を譲ること
本書を読んだ後、サウナに行く。
正月の折、駐車場は満車で、町田のサウナは大混雑であった。
大サウナ室では「立ち見状態」で席が空くまで待っていた。
自分より前に並んでいた金髪のサーファー風のお兄ちゃんがいて、私が立っている場所に近い席が空いたので「どうぞ」と言うと「いやいや、どうぞ」と席を譲られてしまった。
とても気持ちの良いコミュニケーションだった。
否応無しに列に並んでいることを痛感させられる状況で、席を譲られるという行為は最強のギフトかもしれない。
もちろん人生において譲ってはいけない席や列はある。
動物だってそうなのだ。
自身や家族の生存を脅かすような席を譲ってはいけない。
これはどんなお坊さんだろうが否定させない。
しかし、列というカルマの中にあって、順番をギフトする解脱的な行為は超人的で、驚きをもって迎えられるのではないか。
ギブとテイクは、対立概念だが、実際以下のイメージだと思う。
ギブ > テイク
ギブ多き新年となるように。
その他気になった表現(私的メモ)
「誰か降りてください。私もうずっと待ってるんです。たっ君もしー君も」
デパートのエレベーターにて。
自身も同じような気持ちを抱くことがある。
しかしパブリックという概念がない人にとっては「私だってずっと待ったんだ」を誘発して終わりであろう。
他人をあてにした奴が悪い。あなたの責任だよ
こんな社会や集団は嫌だ。
でも、自己防衛的にその前提で考えたり行動したりるす自分もいる。
少なくとも自社においては、こんな考えは許さない。
背中を預けられなくて何が仲間か。
その間、私は椅子を持ちのが面倒みたいな、何かのアクシデントで持たざるを得なかった表情をして、他者の視線から自分の逸脱を守っていた
電車で花束を持っている時の様な気持ちだろうと思う。
それもスーツなら良いが、パジャマだったら、他者の視線に耐えられない。
「…なるほど」私は言う。これ以上沈黙すれば、聞いていないとばれてしまう
こういうシチュエーションはある(笑)
早く帰りまた椅子を洗おうと思いながら、何だか仕事もそれほど嫌ではなくなっていた
後で楽しいイベントがあるということは、その瞬間だけ列から逸脱できるという状態かもしれない。
現実逃避は「列というカルマからの逃避」と言い換えて良いかもしれない。
あの椅子は、人生を変えるきっかけだったはずです。私はそのサインを見落とさなかったのに、機会を捉えなかった…同じ過ちはなしだ
ホルスティーのマニフェスト「Some opportunitied only come once, seize them」
でも勘違いしないでください。それは背後の意思で僕の意思じゃない。後ろの人達のために僕はそうするだけで
クズいパブリックエクスキューズ。
こういう論法や言い訳を人生で何度考えたことだろう。
私は見なかった。見たくなかった
自身の認知バイアスが及びそうものない、フレッシュな情報から目を背けたくなる気持ちはよく分かる。
それは脳の性質であるから、基本的に余裕がなければ見たくもないだろう。
彼女にとって、後ろの女性は重要かもしれないが、後ろの男性は重要ではないのだろう
女の子は母親に厳しいと聞く。
同性・異性は違う列に並んでいることが多々ある。
彼女を少し軽蔑した
主人公は見たくないから見なかった。つまり逃げた。
彼女は見たくないものを正しく見なかった。異物として排除した。
見ていない点では同じだが、認知レベルが低いから軽蔑したということ。
前者はいつからちゃんと「見る」可能性があるが、後者は一生正しく「見る」ことはない。
でもこれ多分、デマだと思います
人は座席争いの為に平気で嘘をつく。
それほど奇麗ではない相手に奇麗と言うと、気持ちがよくなるのだった
これわかるけど何でだろうな。
相手の自尊心を満たし、感情を自分の言葉でコントロール出来ているという錯覚によって、
脳はどういう報酬を得ているのだろうか。
…
その後に「そんなに見ないでください」という表現が続くので、これはサディズムを表しているのか。
上空を見た。なぜ見たのかわからなかった
その瞬間前後は、列のことなんてどうでも良く、非合理的な行動をしたのであろう。
何かドキュメンタリーを観たいのに〜した方がいいので、そうすることにした
これもわかるけど、何故なんだろうな。
不確か、ということにも、私達はこんな風に惹きつけられるのだろうか
射幸心は不確かさに紐づく。
でもそれじゃ君は満足しない。なぜなら、それだと君を喝采してくれる人もいなくなるから
自分もそう思う。勝敗のないスポーツでは燃えることができない。
狩るという手段そのものに、攻撃欲動という快楽を植え付けられているのではないか
狩りをした結果の満腹にのみ報酬があるのではなく、狩りを行う瞬間に報酬系が発動しているのではという推論。
ありそう。
言い方が違うと思った。ちゃんと言うべきだ
ほんとこの作家さん好きだな。
よくぞこんな感情描写が(笑)
あるあるだな。
なぜスマホなどを誰も見ていないのか、わかったような気がした。別にスマホでも現実でも、全て同じだからだった。あらゆるところに、ただ列が溢れているだけだ
SNSなんかは列だと思うが、コンテンツは列というよりも、脳がハックされて「見ちゃう」という状態だと思う。
個々のサルは自分の順位など意識しておらず、世代が上の猿に気を遣うに過ぎない(中略)人工的に作られた餌場では、猿は野生と異なった行動を取る(中略)人工的な餌場が、潜在的にあるサルの順位や争う性質を、顕在化・極端化することになる
資源が限られた場所において、序列が明確になるという内容は面白い。
人の数が少なければ、倫理も薄くなる
目が倫理をつくることは間違いがないと思う。
学校の道徳ではこういうことを教えて欲しいと思う。
美人であるとか多方で目立ち噂になるようなタイプではないのに、関わった男の大半が惹かれるというか、不吉な雰囲気がある
こういう人はいると思うし、前述「それほど奇麗ではない相手に奇麗と言うと、気持ちがよくなるのだった」の項で記載した内容を元にすると、こういう女性は、男性のサディズムを刺激するのだと思われる。
しかし実際は、相手の方がサディスティックであり、手玉に取られ、屍累々という状況なのだろう。
ニホンザルは仲間が見えず不安になると「ホイアー」と叫ぶ特定の声がある
そう感じたら「ホイアー」と言ってみよう(笑)
同じ場所で飼っているネズミに痛みを与えると、見る仲間のネズミは動揺します。でも別の知らないネズミに同じことをしても、見るネズミは何の反応もしない
自分の知らない人が被災している時に、仲間意識を持ち助け合うには、想像力か共有できる前提が必要だと思う。
どうやったら「うち、そと」から「われわれ」になれるのか。
同種を殺すことに本能的・生物的な拒否感を覚えるはずだが、その感覚は「集団でやる」ことで分散し、ごまかし薄れるのではないか(中略)動物に悪を可能にさせるのは知性ということになる
ロシアとウクライナの戦争や、イスラエルとハマスの戦闘。
人間には避けられない暗さがある。
目を背けたくもなるが、まずは理解しようと思う。
ぼくを愛さないで、でもぼくに忠実でいてくれ!
カミュの転落に出てくる一節らしい。
今度読んでみよう。
君たちの尺度を私たちに当てはめるな
空想したニホンザルの言葉。
擬人化や虚構づくりが得意な私たちにとって、ハッとする言葉。
他者を理解するということにも置き換えて考えるべきである。