大正生まれの男


博多発の古めかしい”かもめ”に乗って長崎に向かっている。

今朝亡くなった祖父の通夜を行う為だ。95歳の大往生であった。

涙もろい自分のことだから、どうせ最後は泣くのだろうが、大往生だし良かったという気持ちや、何とも実感がわかない所もあって、祖父のことを思い出してみようと久々にブログを書き初めた。

大正十五年生まれ。佐賀の船乗り

と書くといささか男らしい印象を与えるが、実際の本人は中々人間臭い人だった。

大正15年に佐賀県の肥前山口で生まれた(詳しく覚えていないが大家族の次男だったと思う)

祖父の父は小学校の校長先生だったらしい。子ども心に「すごいね」と言うと、祖父は「当時の先生は儲からなかった」と決まって返してきた。今にして思えば、多分照れくさかったのだろう。

校長先生のそのまた父親は「吉丸菓子店」という和菓子屋を営み、カステラなんかを焼いていたそうな。長崎から福岡の小倉に続く砂糖の運搬ルートいわゆる「シュガーロード」というものが存在していて、肥前山口はそのルート沿いにあった為、砂糖が調達しやすかった。

生まれた瞬間から激動の昭和史に足を踏み入れた祖父。恐慌や戦争は佐賀の片田舎にも影を落とし、太平洋戦争で彼は最愛の兄をなくしている。学徒出陣で京都の帝大から出兵し、フィリピンで暗号解読任務中に戦死した。骨も帰ってこなかった。

また祖父にとっての災難は、自慢の兄との別れだけではなかった。一家は兄を大学に入れる為に所有していた資産の大半を売却していた。(当時の校長が儲からないみたいな話もあいまって)祖父は高等教育を受けることが出来なかった。お金を工面してくれるはずだった兄に頼ることは出来なかった。

「俺は勉強が出来たが、学校にはお金がなくて行くことが出来なかった」と事あるごとに言っていて、子どもの頃は「おじいちゃんまた言ってるよ」と思っていたが、今なら気持ちがわかる。当時の学歴社会は今の比ではない。学士であるかどうかで稼ぎも社会的ステータも変わったわけだから、くどくど言うとしてもそれは、むべなるかなである。幼い孫に学校に行ける有り難みを伝えたかったのだろう。

20歳で終戦を迎えている。招集されたかどうか聞いた記憶がないのだが、年齢が若く招集されなっかったのか、健康問題(蓄膿がひどかったらしい)で落ちたかどちらかだったと思う。

祖父は、冒頭の見出しにある「船乗り」には違いないのだが、男らしく威勢が良い感じの漁師ではなく「無線通信士」という仕事をしていた。漁船に乗っていたのか、貨物船に乗っていたのかすら知らないが、私の父によると、一度航海に出ると、数ヶ月は帰ってこなかったらしい。

長くなりすぎたが大まかなプロフィールである。

老年まで続くひょうきんな個性

庭にウルトラマンが来た

まだ自分が就学前に祖父宅へ行くと「彰君!昨日庭にウルトラマンが来たとよ」と毎度言われた。当時の幼い私は最初は大はしゃぎしていたが、途中から「うそだぁ!いつ?何時?何分?」みたいな感じで祖父を問い詰めるようになる。私に問い詰められている祖父のちょっと赤らんだ顔は今でも覚えている。人が”いたずらをする顔”を私はあの当時インプットした。

庭にから鳴り響く不気味な音

ウルトラマンから、約80年後、真夜中に祖母が不審な音を聞く

「ザクッ…ザクッ…ザクッ…」

庭から聞こえる奇妙な音に近寄って、恐る恐る祖母が覗き込むと、祖父は地面に穴を掘っていた。うんこを漏らしてしまい、証拠隠滅を図ったのだ。

その話を聞いた時「うん、まだまだ元気だな」と安心したものだ。

カブコンをこよなく愛した投機好き

あんまり詳しく知らないし、親戚も教えてくれないが、祖父は、一時期株で財をなし、株で財を失ったそうだ。失うレベルは家計が傾くレベルだったそうだ。男同士が仲良くなるには以下3つのうちいずれかの話をすればいいと言われている。

  • お酒の失敗
  • 女性関係の失敗
  • ギャンブルの失敗

「パチンコやギャンブルは好かん」と言っていたが、傾くくらいの株式投資は多分ギャンブルに分類して良いと思う。何を隠そう私は過去にテニアン島のカジノトーナメントで入賞経験があり、その次の月にマカオでスッテンテンになった経験がある。他人とは思えない祖父のエピソードは何だか書いていて「ニヤニヤ」してしまう。

30年くらい前には、カラオケのデンモクみたいな形の「カブコン」という機械があって、祖父はいつも株価を見ていた。「任天堂ってどうね?よかね?」と小学生の私に聞いてきては「SONYの株価が100円の時買ったやつば、もし今も持っとたら…今10,000円もするけんね」と小学生の私に後悔を吐露する。

おじいちゃん。子ども心に何となくニヤニヤしていたよ。好きなんだよギャンブル。

漫画の様な喧嘩方法

「無線通信士」として船に乗っていたが、海の男は荒くれ者が多かったらしい。怒って喧嘩をする時は、通信室にこもり、相手が入ってきようものなら、部屋中のものを投げつけて、侵入を拒否したらしい。佐賀出身の著名人で日本赤十字社の創設に関わった「佐野常民」という男がいるのだが、泣きべそをかきながら相手を説得するスタイルを取っていたらしい。どちらも漫画でありそうな状況だが、佐賀男の常套手段なのか。

断食信奉者

定期的に断食を行っていた。ファスティングなんて言葉が流行る30年以上前からだ。

蓄膿は断食で治したと豪語しており、断食後「鼻からおけいっぱいの鼻水が出て、それ以降は収まった」と何ともグロテスクなエピソードも添えてくれた。

肉だよ肉

90歳を超えても、肉の方が大好きだったことを、ほとほと困り顔の祖母から聞いた。

「老人は魚が好き」という私の幻想は見事に打ち砕かれた。

不思議で照れ屋で優しい男

上海で買った絵の話

広い家でもないのに、絵がたくさん飾ってあった。ある1枚の絵を特に大事にしていて、上海に寄港した際に買ったそうだ。寄港と言っても本当に岸壁につけただけで、ビザもパスポートもなく、船が着くと、その周りに、中国人の売り子たちが殺到して、手すり越しにやり取りをしていたらしい。私は何故かその話が大好きで(今でも好きで)何というか人間の熱気やダイナミズムを感じる。値段を多分ふっかけられたであろうその絵を買う時祖父は何を感じていたのであろうか。

喘息とヘッドマッサージ

私は小児喘息を患っていて、発作が出ると息苦しく、寝られずに地獄の様な思いを感じていた。発作とまではいかないまでも、ちょっとホコリが舞っていると、呼吸が「ヒューヒュー」鳴ってしまい、外泊する時は、毎回そんな具合であった。そんな時、祖父は頭をマッサージしてくれた。肺とは全然関係ないのだが、しばらくするとスッ眠りに落ちていた。魔法の様だと思った。

私の奥さんに言わせると私はヘッドマッサージが上手いらしい。原体験は祖父からだ。

大学を中退した時

両親に内緒で勝手に大学を中退した時、祖父だけが味方になってくれた。

意外だった。「勉強して立派になりなさい」と口を酸っぱくしていたのに。と同時に祖父らしいとも思う。

あの当時、自身の決断や存在を擁護してくれる存在は何よりも嬉しかった。

祖父はお礼を言うと、その度に「よかよか」と言って話題を変える。

祖父の顔を思い出そうとすると、照れくさそうな「よかよか」の顔や、ひょうきんな表情で「あら、すごかね」と褒めている顔、噛みしめるように「よかたい。よかよか」と言う優しい表情を思い出す。

人に弱みを見せない男が必死で戦う姿

先月福岡出張がてら、祖父を見舞いにいった。コロナのご時世一人しか病室に入れないので、しばらく私と祖父だけの小さな空間ができた。

祖父は寝ていたが、必死で呼吸をしていた。

人に弱みを見せない男が必死で戦う姿がそこにはあった。

祖父の胸にそっと手を当てて、「来たよ」と言って病室を出る。

思えば、95歳の祖父と88歳の祖母は二人暮らしで、誰の介護を受けることもなかった。

帰り際、ただ呼吸だけをしているその姿を思い出し、大正生まれの気骨を感じた。

 

 

ありがとう。