スパイとして戦死した大叔父の、戦前の雑記
僕の父方の大叔父(僕の祖父の兄)は学徒出陣により出兵し、フィリピンで戦死している。
骨も帰ってこなかったようで、正確にはどこで死んだのかさえわかっていないが、英語が出来たので、スパイ(諜報員)として暗号解読を行っていたようだ。
僕のひぃおばあちゃんの落胆は凄まじかったらしい。
九州に墓参りに行くと、「吉丸家ノ墓」の横にほぼ同じ大きさで「吉丸欽一郎ノ墓」とある。
ひぃおばあちゃんたっての願いで一人だけ特別にお墓をたてたそうなのだ。
その骨も入っていないお墓を見るにつけて、溺愛ぶりは相当だったのだろう。
京都の帝大に進学する際も、学校の先生をしていたひぃおじいさんの給与ではまかないきれず、唯一の資産であった山2つを売って、学費に充てさせたらしい。
「兄貴の進学でお金がなくなったから、俺は勉強が出来たのに大学に行けなかった」
がうちのじいさんの口癖で、子どもの頃から何度も聞かされている。
その話が本当か嘘かは知る由もないが、孫としてはじいさんを弁護して、「勉強が出来たのにお金がなくて〜」を信じるようにしている。
「彰くん、昨日庭にウルトラマンが来た!」も子どもの頃から何度も聞かされている話で、孫としては信じるようにしている。
ちなみに父方の祖父母はもう90歳近いが、どちらも健在で大きな病気もしていない。
先般夜中に庭から「ザクッ、ザクッ、」という穴を掘る音が聞こえて、祖母が恐る恐る窓から庭を覗くと、じいさんが木の根元に穴を掘って、パンツを埋めようとしていたらしい。
昔気質の頑固な人なので、漏らしたという事実をどうしても”漏らしたくなかった”そうな。
じいさんが漏らした話は、本編とは全く関係ないのでこのへんでやめることにする。
さて「欽一郎さん」である。
何というか、人を惹き付ける様な人だったそうで、我が一族の間では
「欽一郎さんみたいに立派な人になりなさい」
「欽一郎さんみたいになれるように、しっかり勉強しなさい」など、
象徴的で”模範的な”人であった。ただ、ヴェールに包まれており実際にどんな人だったのかを知る手がかりは少なく、「きっと聖人君子みたいな人だったのだろう」くらいに僕は思っていた。
ある日、「大掃除をしていたら、欽一郎さんの手記が見つかった!」という連絡があり、「見たい見たい」と祖父母の家を訪れた。
何故か祖母がバツの悪そうな顔をしている。手記がどうしたんだと尋ねると「いや、だって、女の人のことばっかり書いてあるから・・・」と祖母。
模範的な欽一郎さんの手記には、論語の写しでもあるとでも思っていたのだろうか。
でも確かに祖母の気持ちもわからないでない。内容が意外過ぎるのだ。
当時の24歳の若者の手記だから、戦時下の差し迫った緊迫感で溢れていたり、軍国青年的な国を賛美するような内容が書かれていると僕も思っていた。
ところが蓋を開けると、かなり牧歌的で「嵐山」がよく出てくるのだが、内容ものんきだったり、女性のことばっかりだったりする。
僕は逆に親近感を感じて、その手記を食い入るように見ていった。例えばこんな感じだ。
嵐山のある川辺で四人のメッチェンが楽しそうに語りつつ、何か食べてゐた
僕たちはその対岸で草に寝そべってそれをうっとりと眺めてゐた
天下の勝地嵐山を背景に彼女らの姿は
一暢の像であり
一聯の詩であり又
甘く悩ましい音楽でもあつた
秋の夕暮れ近く遊客のつく鐘の音があたりの大気をふるはした
僕達は天国の春いれ遠(?)の青春の春の口にしばらく遊んでゐた
何というか中々詩人なのだ(笑)
日付が入っていないが、この雑記が書かれたのは1941〜1944年の間である。
戦争中の若者の雑記と思っていたので少し意表を付かれた。
以下も主に女性関連の内容。
保津川は屋形船で下ろ
どこを向いても紅葉ばかり
派手な乙女のパラソルが 河畔の道に見え隠れする
呼んでみようか思いきつて
三々五々彼女等のさざめき声はひねもす嵐山の紅葉空に満ちあふれる
若々しい血潮の香りとともに
嵐山の空気も若返るかのごとく
ある1人の若き乙女弟と共に小さい寺の近くの川原に来る
彼女は唯一人 川辺の草原に坐って
頬杖ついてしよんぼりと 川向を眺める
嵐山の秋の夕映えの空の中に くつきりと浮かんだ彼女の姿
しばし姿をくづさず 物思いに耽る
僕はぢっとそのメッチェンを眺める
何を彼女は考へるか知らんと
戀?それとも戀人のこと?
或いは又なくなった遠い天に住むやさしい母親のこと?
彼女のポーズは最上の書題となる
僕は彼女に見とれてゐる 純血そのものの姿に!
僕は嬉しくもあり、悲しいやうな気もした
1940年に書かれた故郷についての内容。
1944年に書かれた同じテイストの内容。
何というか、全体的に文体が暗いのである。大叔父はこの年に消息を断つこととなる。
絵が好きだったようで、B52つ折りの小さなノートにたくさんのイラストがあった。
自画像らしい。どことなく僕に似ている。
絵の才能を少しだけでももらえれば、美術で1を取ることもなかっただろう。
逆さ富士の絵なのだが、アイディアが面白い。
ノートを閉じてこのページだけ、強くプレスし、鉛筆の色が移ることで、上下対象の逆さ富士が成立している。
もしかしたらだが、最初は上部ページの富士だけ書いていて、ある日色移りを発見してから、ボートを書き足したのだろうか?
海軍びいきだったそう。
伊達政宗「戦争とは民をあんずるの道」とある。
少なくとも当時の大叔父はそれを信じて、大義として抱いて、散っていったのだろう。
正義は簡単に論ずることは出来ない。と改めて考えさせられる。