2021年12月12日
(4)選考が大荒れした直木賞受賞作「テスカトリポカ」を読んで
その他印象に残ったことなど。
「わたしが求めるものは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい
師匠パブロが必死に伝え、キリスト教が嫌いだと言うコシモを目覚めさせた、聖書の一節。
元々は旧約聖書のホセア書の言葉だそうだ「わたしが喜ぶのは愛であって、いけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」
憐れみは「愛」という解釈をする。
父の古びた聖書を読んでいたパブロにこの一節が突き刺さった。臓器売買ビジネスに直接こそ関わっていないが、その全貌を知り、罪の意識にさいなまれていたからだ。
この言葉を伝えられたコシモは、結局「シェルターに行って学び」いけにえを救い出した。
何故最後は花の戦争だったのか?
コシモの理屈を整理すると、
- (1)祭祀には生贄が必要
- (2)順太は救う
- (3)代わりの生贄が必要
- (4)それは自身かパドレがなれば良い
- (5)花の戦争でどちらかを決める
こんな順番であろうか。
何故物語の最後はアブエリータの話なのか?
バルミロは最後の瞬間に「全てを理解した」と感じている。本当に生贄になる為に、様々な出来事が起こり、はるばる日本まで旅してきたと思っているならば正直「狂っている」と思った。
しかし、物語の最後のアブエリータの話はこう締めくくられている「おまえたちが見上げるのは、ご先祖様がテノチティトランから見上げたのおと同じ月だよ」
アステカと同じ月が現在も浮かんでいる=アステカの神々は今も健在だよ
という隠喩で締めくくられているのであれば「狂っている」と思わさせられたバルミロの解釈は正しいことになる。そしてアステカの恐るべき神の影は今後もチラつくというダークエンドなのかもしれない。
あまりにも長い太字箇所
P219から6ページにわたって(またP418からも2ページ)全て太字に。バイオセンチメンタリティーが著者の発明でり、そのことが物語のストーリーに大きな影響をもたらす為と推測
その他
- マフィアのビジネスで「競争はなくあるのは独占だけだ」これはビジネスの心理だと思う。
- ソモスファミリア(我々は家族だ)この言葉の語感が気持ち良く思わず口ずさんでしまう。