ドイツ紀行_老いるとはどういうことか?
キレる老人の話
会話を盛り上げる最良の調味料は共通点の発見である。
営業マンでも、面接でも、友人同士でも、異性との会話でも大体一緒だ。
自分よりも一回り下の世代と話をする時は、苦労している。
質問を散らしてみたり、相手の発言を待ったりしながら、常に何かの糸口を探す努力をしている。
先日、飲み屋でキレる老人の話を聞いた。
上記の理屈を当てはめて考えた時に「我慢できなかったんだろうな」と思った。
共通点を探す努力が面倒だったのだろう。
自分にもそうした瞬間はあるが、これは老いの一種であると思われるので気をつけようと思っている。
何度でも立ち上がる1歳児
「起業家にとって重要なのは何度でも立ち上がること」
最近のお気に入りの言葉で、これは弊社CTOユーディソンの格言だ。
「赤ん坊の頃はそうしていたはずさ」と彼は続ける。
確かに1歳になったばかりのわが子は、転んでも転んでも何度でも歩こうと立ち上がる。
彼は恐れを知らないのかと言えばそうではない。
恐る恐る立ち上がるし、本当は歩けるのに、怖がってでハイハイをしたりもする。
「僕は怖いんだ。でも立って歩きたいんだ!」
私の親バカを差し引いても、この点にこそ感動があると思う。
恐れも痛みも知らない人間の挑戦は味気ない。
恐れや痛みを知るものがチャレンジをして、何度も立ち上がる姿に胸を打たれるのだ。
ドイツで何度も転ぶ。でも必要性があるから立ち上がる
先週からドイツに来ており、DMEXCOでmousflowチームと打ち合わせをしたり、あるSaaSの国内販売交渉をしたり、EO-Germanyの経営者と交流を持たせてもらった。
有り難いことに、10年前まではほとんど英語も話せなかった男が、仕事上はあまり言葉や環境に対してストレスを感じなくなっていた。
ただし、やはり住み慣れていない場所では様々なトラブルが起きる。
- 鬼の形相で走ったのに、ICEに乗り遅れる
- 時差がしんどい
- クレジットで大丈夫だろとタカをくくっていたら現金が底をつく
- (そんなこともあるだろうと事前にJCBに確認していた)海外キャッシングが何故か使えない
- ライン川のほとりでオシャレにウクレレで弾き語っていたら、鳥の糞の上に座っていた
- たまたまデュッセルドルフにいて、サッカー日本代表戦を見に行ったら、隣のオヤジのヤジが汚すぎてイライラする
- 日本側の席のはずなのに、後ろの席にアメリカ人が10人くらいいて、差別的な表現を多用した口の悪さにイライラする
- vodafoneのプリペイドSIMを使っているのだが、携帯をリスタートしたら、再度ロックがかかるものの、PUKコードがわからない
- 最寄り(30分は歩いた)のvodafoneショップに行ったらサポート機能のない販売代理店で塩対応される
- 往復1時間は時差ボケにはこたえる
- 閉店間際にシティセンターの公式店へ駆け込み、事なきをえる
- 本当は色んなものを食べたいのに、気づいたらケバブばかり食べている
- PCRテストの予約をしたのに、スタッフ緊急の用とかで1時間後にまた来てねとのこと
愚痴というか、旅慣れた自分ですら、5日間の滞在でこのくらいのことが起きる。
でも、何とかしなきゃならないから、何とかする。
住み慣れた場所では新しいことをする必要性はない
それはそうだろう。私も通っているサウナはいつもウェルビー今池だし、自分の心地よい場所をどんどん作っていくのが人間だ。
新しいことに取り組むのは、怖い。
転ぶかもしれないのに、立ち上がるのは怖い。
これはきっと誰しも同じだ。
でも、立ち上がることを、挑戦することを辞めてしまうと、きっと老いが訪れる。
若い人は好奇心旺盛に都会を求める。
私の知っている老いを感じさせない大人は、好奇心の対象に目を見開いている。
そして、転んでも転んでも立ち上がる。
老いるとはどういうことか?
さっき散々愚痴を書いたが、当然転んで立ち上がった私はたくさんの果実も得ている。
mouseflowのチームとこれほど強いつながりを感じたことがなかったし、新しいプロダクトとの出会い含めビジネスチャンスも得た。生まれて始めて日本代表戦も見れたし、先輩の言葉を借りると「貯蓄に勝る経験を得た」わけだ。
mouseflowのチームとの打上げで、上を向いて歩こうをアカペラで歌わせてもらった。
歌の解釈について、以下の様に伝えた。
「下を向かずに、上を見上げよう。新しい価値を作りだす人に必要な姿勢は、何千回でも立ち上がることだ」
何千回でも立ち上がれなんて、坂本九は言っていないが、そういう意図の歌だと思っている。
老いるとはどういうことはどういうことなのか?
私なりに2つの結論を書いておく。
老いるとは「転ぶことを恐れて、立ち上がらないこと」
老いるとは「転んだ後に、立ち上がるのをやめること」
である。
老いのない人生を送ろうと思う。
ただ、そもそも「老い」をテーマにしていることそのものが老いてきた証拠かもしれないが。
幸せの形はひとそれぞれだろう。
ただ考えてみて欲しい。
失敗のない人生に感動などあるだろうか?
答えはノーだ。だったら挑戦しようではないか。