学習とアートには自明性の外に人を連れ出して傷つける機能がある
ここ1ヶ月ほど宮台真司さんの動画に感銘を受け、PIVOT中心に閲覧できるものは閲覧した。宮台さんの言葉を借りれば、動画によって、自明性の外に強制的に連れ出され、傷つき学習したのである。
ここ数日は宮台動画を見ても、そういった”自明性の外の連れ出される”体験が減った。自身の理解力の問題もあるだろうが、一貫して主張しておられる「システムの上にあぐらをかいて、身体性を劣化させるな。社会という荒野を仲間と共に生きよ」というポイントを存分に味わったからであろう。
「学習やアートには、自明性の外に人を連れ出して傷つけるという機能がある。その修復プロセスこそが重要だ」という指摘はなるほどもっともだと唸った。
「英語を覚えて、数字に強くなって、プログラミング覚えて、マーケティング得意になって、プレゼンに強くなる。そんなやつはバカだ」と言われれば「何だと!」と反論もしたくなったが「コスパが悪い。英語が出来ないなら英語ができる仲間がいれば良い。俺はこれが苦手だから、◯◯さん助けてねって言えれば良い。人類は共同体になることで生き残って来たんだ。それが出来ないってんなら、あなたの身体性は劣化している」。これには傷ついた。しかし、そうした衝撃であったからこそ、考えるきっかけとなり、行動を変えるトリガーになりえた。
アートの効能という意味でも、新しいコンセプトだと感心し、これまでの体験を振り返るきっかけとなった。29歳くらいまでアート音痴だった自分にその楽しみ方を教えてくれたのは、我が師匠の一人、太田裕二である。
「いいかヨッシー、純文学なんてエンタメ作品と違って、話の筋なんか大して面白くないんだ。あれは”あるある”を探す遊びなんだ」言葉ではどう表現して良いかわからない感覚を、言葉巧みに文章を通じて体感させる。そのプロセスを通じて”人間とは”という問いの答えを炙り出していく。今では、純文学の楽しみとはそうしたものだと思っている。
「絵を見る時もな、何か一つでも自分が気になった箇所を中心に見ると良い」と伝えられた。この理由についてこれまで自分は以下の様に理解していた。
「絵を見て何故そのポイントで引っかかたのか、どうして気になってしまったのか?どうしてこういう気持ちや感覚になってしまったのか?を考えて引き出しに入れていく。そうすることで、表現者として類似の作用をさせたい時に、引き出しを開けて利用することができる」
しかしアートの”自明性の外に人を連れ出して傷つける”機能を考えた時に、ある映画のことを思い出した。「存在の耐えられない軽さ」というプラハの春をテーマにした映画だ。名作と言われているし、今もこうして思い出すので「引っかかり」があったわけだが、何故なのかがよくわからなかった。
話の筋はうる覚えのところもあるが大体以下の通り。物語の冒頭はトマシュというプレイボーイの医者が、モテまくる痛快さに始まる(個人的には医者コントの様な”Take off your clothes”の箇所なんかが何だかニヤニヤしちゃって見ていたりしたが)。浮気症のトマシュによってヒロインは傷つく。プラハの春に際して、国を脱出することには成功するが、医者という職業を失い、生活に苦労する。それでもようやくヒロインと共に質素で幸せな生活を手にする。そして幸せを手にした次のカットで交通事故であっけなく死んでしまうという映画だ。
今ならわかるが、あの映画を見た若き日の自分は傷ついたのだ。起承転結を経て幸せを手にした後にあっけなく死んでしまう不条理さ。しかしその不条理さが圧倒的で残酷な真理だと理解をしてしまったからだ。
映画をリラックスして見ていた自分。起承転結を期待していた自分にとって、強制的に自明性の外に連れ出されるアート体験であった。