月間ArtCollectors’「色気ってなに?」
ウェルビー今池帰りにらくだ書店に寄り、雑誌コーナーで思わず目を止めてしまった。
色気ってなんであろうか?
という好奇心を抑えられず購読。自分なりに内容をまとめてみる。
1_画家が”色気”を感じる瞬間より。帰納法的なアプローチ
男性画家と女性画家が色気を感じるポイントについて、抜粋しカテゴリー分けをして集計した。
※抽象(中)に記載のある「アンビバレンス」は同一対象が2つの相反する要素を持ち合わさせているという意味で使用。
男性画家が色気を感じる時
- 肌の露出のようなわかりやすい視覚的なものというより、女性が自然体の中に見せるふとした隙間
- 意図して表現されるものではない
- 肌の質感
- ただ美しいだけでなく、その中にある強さや悲しさ
- 曲線美
- 外面の美しさと内面の醜さの間にある歪み
- コーヒーで例えると花のような果実のような香りがするもの
- 背景にある悲しみと、エロティックなポーズのコントラスト
- 仕草ではなく匂い(仕草の発見には共に過ごす時間の蓄積が必要だが、匂いはひと時の逢瀬の記憶)
- 執着(ピエール・ボナールが奥さんに執着する様)
- 血管
- 肉体の張りから感じられる生命力
- 背中のタトゥー(葛藤や秘密に色気を感じる)
- にじみ出るもの
- 美しいとグロテクスのはざまにあり、美しいに近いもの
女性画家が色気を感じる時
- “知りたい”と思わせる何か。ベールに包まれているような謎めいた感じ
- 肌の美しさ
- 柔らかさのなかに芯がある線や文字
- 意識せず漂うもの
- この人が居たという実感(ベッドに残った体温、残香)
- 生々しさ
- 悲しい体験を持つひとが、それを痛みだけでなく別のものに昇華させる様
- 仕草が色欲を含んでいるかどう、イタズラか本気か、明言されない浮遊感
- 未成熟から漂うもの
- 真剣な眼差しに潜む狂気や色気
- 1対1の空間
- さりげない動きや瞬きに微かな恥じらいが滲んでいること
- 痩せ我慢
- 無意識な哀愁
- 美しい肌
- 葛藤
- 緊張と弛緩から発生
- 曖昧さ
- 目元
- 生々しさ
- 匂い
両義性に色気を感じる男
男性は相反する2つの要素が一人の女性(一人の対象)に内在していることに色気を感じている。少数意見ではあるが「隙間」に色気を感じるという回答もあった。
色気を感じるバリエーションが豊富な女
男性ほど両義性に偏っているわけではなく、色気を感じるバリエーションの豊富さがうかがえる。
男女ともに肉体的なものと精神的なものに色気を感じる割合は同じ
生々しさや美しさなどの肉体的な要素に色気を感じる割合が41.1%。
生々しさや美しさなどの肉体的な要素に色気を感じる割合が40.9%。男性と見事に一致している。
血管や曲線美に色気を感じる男
女性との差は、血管や曲線美などに色気を感じるという回答が多かった点。
無邪気さや匂い、肌の質感に色気を感じる女
無邪気さに色気を感じるというのは、母性的な雰囲気を感じる。匂いや肌の質感に色気を感じるというのも女性ならではと思われる。
2_色気の再現性
色気の再現性について考えてみる。当たり前過ぎることを書いているが、帰納的に考えた結果である。
外見を整える(十分条件)
体を鍛える、男女ともに健康な体型を維持するということが、外見的・動物的色気を高めることになる。
また、「外見が整っているのに、内面が××」といった、両面性の色気向上も期待できる。
葛藤を乗り越える(必要条件)
葛藤を抱えながら、それを別のものとして昇華する姿勢や、痩せ我慢をする姿勢、悲しい体験を超えていく姿に人は色気を覚えている。ただし外見を整える必要あり。
内面に深みをもたせる(必要条件)
「○○なのに××」というアンビバレンスをもたせるには、内面の豊かさが必要となる。
まとめ
自身において、再現性のことを考えると
- 体を鍛える
- 身だしなみを整える
- 葛藤を乗り越える
- 学び内面を磨く
ということになり、最も大きな障害は体を鍛えるということとなる。
3_おまけ
ヨコタ村上孝之氏の寄稿文を元にし、色気とはを演繹的に記述する。
「色」の歴史
「色気」の語は江戸時代、近松門左衛門の浄瑠璃で生まれた。一方、「色」は恋愛・性愛を示す言葉として万葉集時代まで遡る。明治時代、内田魯庵はロミオを全てを恋愛に捧げる「遊び人」と訳した。これは、江戸時代の感覚に基づいており、「遊び人」は「余裕」の証であり、恋愛と性愛が一体となっていた。
しかし、明治以降、西欧の二元的な恋愛観が導入され「色」は愛と穢れた肉体の対立概念の中で、穢れた肉体側に位置付けられた。この結果、色男は遊び人、すなわち低俗な肉欲の象徴と解釈されるようになった。現代日本では、西欧的な概念と明治以前の「色」の感覚が共存している。
いきと両義性
「色好み」は遊郭を背景に、「いき」という概念へ昇華された。これは、1930年に九鬼周造が『「いき」の構造』で体系的に説明したもので、「色気」は「いき」の構成要素の一つとされた。九鬼によれば、「いき」は両義的で二元的な概念で、その重要な要素は「媚態」であり、これは「意気地」と「諦め」の結合で表現される。
例えば「ばかにするんじゃないわよ」という意気地と「私なんかどうせだめね」という諦めの合間という意味合いだそう。
「いき」は動的な存在である。それは常に変化し、相反する要素がせめぎ合い、境界を超えるところに生まれる。この動的性質により、九鬼周造は「姿勢を軽く崩すことがいきである」と説明している。つまり「いき」は固定化された形ではなく、その境界を超える動作や振る舞いそのものであるという考え方だ。
具体的な「いき」の表現として、九鬼周造は「うすものを身にまとうこと」を挙げている。この表現は、単純な裸体ではなく、透けて見え隠れする着物を身に纏うことで、色気を引き立てる日本独特の美意識を指している。同様に、「湯上がりの姿」も「いき」の一例として引用されている。湯上がりとは、裸体を覆い隠す布一枚をまとった状態を指し、これは「裸体を回想として近接の過去」に持っていると九鬼は説明する。つまり、裸体という「ない」ものと、湯上がりの姿という「ある」ものの相反が、色気を作り出すという考え方なのである。これらの要素が相互作用することで、日本独特の「色気」や「いき」が形成される。
日本の色気は、立ち振る舞い、声の艶やかさ、三味線の腕前、気の利いたやり取りなど、多様な要素を包含している。この点で、肉体的で直接的な西洋のエロスとは異なる。色気は、相反する存在と不存在が共存する中で生まれ、これが日本独自の「色気」の本質であり、西洋のエロスとは根本的に異なるのである。