人生は選択しているかどうかというディベートに触れて


以前研修で、

  • 人生は選択することが出来る
  • 人生は選択することが出来ない

というテーマで、ディベートを行ったことがある。

最終的にはどちらの立場にも立って、ディベートを行うのであるが、僕個人の意見としては「『人生は選択することが出来ない』寄り」であった。

選択肢を前にして、我々は決断をするわけだが、”選択肢”は偶発性も含め必ずしも自分で用意することが出来ないからだ。

思いがけない偶然の出会いや、出会うタイミングの掛け替えのなさ=「偶然の産物」を愛し、若干ヒッピーライクな僕としては、「そんな、”選択肢”は選択出来ないよ。そんなのわかんないよ」という考えであった(そういう事を言って、ちょっとカッコつけたいというスケベ心もあるとは思うのだが…)

研修講師の先生は「人生は選択出来る」という”スタンス”を取りましょう。と最後に問いかけてくれた。

「『人生は選択出来ない』という言葉面(ヅラ)は、他力本願な感じもするし、姿勢としてはよくないんだろうな〜」と思ったが、何となく釈然としない自分もいた。

「”選択肢”は自分の意思だけでは用意できないよなぁ〜」と。

道端のゴミを拾っているのか

ジムのトレーナーさんが、有酸素運動中に経営の話や人生の話をしてくれるのだが、それが非常に面白い。「数年前に面白い発見をした」という所から話は始まった。

  • 「道端に空き缶が落ちていて、それを見つけたら、拾った方が良いってのは(大体の人は)わかってますよね」
  • 「でも、『これは自分の仕事じゃない』とか、『誰かが代わりにやるだろう』とか、『今日はやめとこ』とか、色んな理由を付けて、”拾わないって判断”をしてるはずなんですよ」
  • 「そこから僕は『やった方が良い』ってことは試しに全部やってみることにしてみたんですよね」
  • 「駅に落ちてる缶を拾って、ゴミ箱に捨てたり、洗い物が溜まってたら、『相手がやるだろう』と思わずに自分で率先してやってみたり、スタッフの顔色がちょっとでもおかしいなと思ったら話しかけてみたり、昔の友人を思い出した時に『元気ー?』とメールしたり」
  • 「(見返りを求めてやるわけじゃないけれど)そういうことをコツコツ積み重ねると、返ってくるんですよ。相手との関係性が良くなったり、思いがけない仕事の紹介をされたり、ゴミを捨てる自分自身に自信が持てたり」
  • 「全ては細かいことの積み重ねなんですよね。例えば男女関係の別れだって、きっかけはあったとしても、結局は小さなことの積み重ねなんだと思うんですね」

やった方がいいってことをメモして消化している

今は、コンテンツマーケティング事業に集中している。ビジネスモデルを形にしようと必死であり、6月には今の7倍くらいのオフィスに移転し、正に勝負の時であるが、僕も起業家の端くれである。やりたい事業は山ほどある。資金的に今は出来ないこともあれば「時間が足りない」という理由をつけて、やっていないこともある。

しかし、である。

  • 本当に時間はないのか?
  • 「選択と集中」という言葉を安易に使っていないか?
  • 小さなテストを行う時間もないのか?

僕はやりたい事業やアイディアをメモ帳に記録しているが、それで消化しているのかもしれない。「これで忘れることはないだろう」という満足感で完結してしまっている。

やった方が良いことは、やった方がいい。

数年がかりでやるってことならもちろん考えるけれど、コツコツ小さな実験を繰り返す為の時間は生み出せるはずだ。「選択と集中」を自分の都合の良いように解釈してはいけないと思った。

「”選択肢”は選択出来ない」を言う資格は今の自分にはない

「どれだけ多くの選択肢を”スルー”してきたのか」と思うと、柄でもないが切なくなる(笑)

「道端に落ちているゴミ」は一つの例えだが、どれだけの選択肢に気づかずに過ごしてきたのかと思うと、胸に感じるところがあり、「”選択肢”は選択出来ない」なんて軽はずみに言えないと思った。

これまでたくさんの選択肢に気づけず、スルーしてきた自分にそんなことを言う権利はないと思った。

人生は(僕が思っていた以上の)無数の選択の連続によって成り立っているならば、改めて「人生は選択することが出来る」と思った。

「人生の”選択肢”は選択出来ない」と言うのは辞める。僕は自分の人生を常に選択する。

 

※書きながら、リップスライムの黄昏サラウンドの歌詞「passing through yeah」のとこを何となく思いだす。いや、パッシィング・スルー・イェーではダメなのだ 笑(好きな曲なんですが)