名言「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」は間違っている


愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

という有名な格言がある。鉄血宰相と言われたプロイセンのビスマルクの言葉だ。

社会人になりたての頃から、この言葉を聞かされ、経験から学ぶことしかできない自分はつくづく愚者だと思いながら、自嘲をしてきた。

ところが、一昨日ふと「これは間違いだ」という思いが去来した。

その理屈について解説してみる。

歴史から学ぶプロセス

事例から学ぶプロセスとは、一般には以下の通りである。

  • A_事象に対して
  • B_抽象化して
  • C_再現性を持った改善案を出す

Cまでやるかどうかは別として、学ぶとは一般的にAとBのプロセスを指す。

日本人が医療難民にならないような、国民皆保険制度を生み出したビスマルクは基本的に天才なので「B_抽象化」が難なく出来ていたのだろう。

しかし、抽象化において必要なのは以下の2つである。

  • X_事象の上位概念を考えられる思考能力
  • Y_クオリア(感覚質)

それぞれ解説をする。

X_事象の上位概念を考えられる思考能力

最近は減ったが、過去には名刺交換した人に対して年賀状を送る習慣があった。

会社員時代には年賀状を出すように言われ、渋々対応していた記憶がある。

上位概念を考えるとは、年賀状を出す目的を考える力のことだ。

  • Aさん_年賀状を出す目的は古い商習慣からである
  • Bさん_年賀状を出す目的は見込み顧客に忘れられない為で、いつでも連絡が取れる状況を作る為である

捉え方は違うが、Aさんは会社がプリントした年賀状をそのまま出す。Bさんは気の利いた一言(たった1文)を裏面に添えて出す。

こうした行動の目的展開が出来る人(Bさんの様な人)は、下位概念である事象自体の行動も変わり、MAツールが登場するとさっさと年賀状を出すことをやめてしまう。

Y_クオリア(感覚質)

物事を抽象化するのに最も大事なのは、実はこのクオリアだ。

平たく言ってしまうと「ハイハイ、この問題って詳細こそ違えど、大体◯◯と同じね」の◯◯のことだ。

クオリアは感覚質と約されるが以下の様にも解釈が可能だ。

  • クオリア = 感覚を伴った体験
  • クオリア = 感覚的にわかる概念

抽象化とは概念化とも言いかえることができるだろう。

先週JAPAN IT WEEKに出展した。その後ある一人の新卒社員が興味深いことを発言していたので紹介する。

「(コロナもあって)これまでZOOMでしか商談してきませんでしたが、直接会って話すと顧客の反応がダイレクトにわかりました。今後ZOOM面談でも活かしたいと思います」

営業にはアプローチ、プレゼン、クロージングの流れがあるが、彼はこのことでアプローチの感覚を掴むことに成功していた。

これはどれだけ机上で説明しても理解させることが出来ない。

学ぶこと、すなわち抽象化にはクオリアが必要

抽象化にはクオリアが必要だ。Xの年賀状のケースですら「見込み客フォロー」という概念=クオリアがなければ、そもそも考えることすらできない。

ビスマルクが「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と述べたのは恐らく晩年であり、彼が歴史から学べる様になったのは、その頃に充分な経験=クオリアがあったからだと推測する。

しかし、過去のクオリアと同じ抽象化が出来ないケースに遭遇した際「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」のスタンスであると、間違う可能性が高い。

これまでの経験的クオリアによって事象を無理やり抽象化してしまうからだ。

AIや量子コンピューティングは「ハイハイ、産業革命と同じね」という具合に過去の概念では説明することができないし、だいたいその理解は間違っている

抽象化するために必要な考え方や概念は、これまでの自身の生き方や経験を元にした身体性、つまりはクオリアに支えられている。この名言は皮肉なことに「歴史から(抽象化して)学ぶには経験(クオリア)が重要だ」と述べているに他ならないのだ。

現代のニューノーマルは「賢者は、経験によって、クオリア(感覚質)を増やしながら、歴史・様々な事象を抽象化して学ぶ」であると改めさせて頂きたい。

ちなみに

昨今の若者や子どもたちは、外遊びや恋愛関係のクオリアが不足していると言われている。我が子には是非外遊びを推奨していきたい。