過去のブログに乗せて、最近思ったことをつらつらと
列
を読んた後、日常には列だらけだと感じる。
- 人気のパン屋
- コストコの駐車場
- 熱田神宮の初詣
- レゴランドのアトラクション(USJやDランドに比べれば空いているが)
- 通期ラッシュの地下鉄
- etc…
嫌になってしまいそうだが、以下は晩年に成功したやなせたかしさんの言葉
人生は満員電車に乗るみたいなもの。すでに満員でも、ずっと降りずにいれば、あるときに席は空く。僕なんて終点近くでやっと座れた。
列に並ぶのは嫌いだが逃げようもない業である。
取れる唯一の態度は一つ。ゲームから降りずに楽しもうではないか。
回想として近接の過去に持つ
明治時代に九鬼周造は「裸体を回想として近接の過去に持つ」ことが「いき」の表現であると述べた。
逆だったらどうだろうかと考えてみた。
派手でセクシャルな格好の人がいた場合に「裸体を予想として近接の未来に持つ」状態は「いき」であろうか。
恐らく違う。
以前のブログで紹介したが、以下の定義には合う。
裸体という「ない」ものと、湯上がりの姿という「ある」ものの相反が、色気を作り出すという考え方
しかし、以下の定義に合わない。
「いき」は動的な存在である。それは常に変化し、相反する要素がせめぎ合い、境界を超えるところに生まれる。この動的性質により、九鬼周造は「姿勢を軽く崩すことがいきである」と説明している。
要は過剰なのである。「派手でセクシャル」な格好は「軽く崩す」の範疇を超えてしまっている。
これは、下品・上品という価値観と似ているのかもしれない。
エクストリームユーザー
先日、アレルギー対応カレーのフードトラック目当てに、家族で遠出した。
妻に「このフードトラック目当てに、わざわざ名古屋から来たと伝えたら」と言うと
「いちいち言わないよ」と言われた。
容器を捨てる時、お店の人にに私はわざわざ伝える。
「これ、ニーズありますよ」と伝えたいのだ。
最早職業病とも言える。こういう人のことをエクストリームユーザーと呼ぶ。
デザイン思考において観察が最も重要であり、観察対象の中でもエクストリームユーザーは優先度が高い。
エクストリームユーザーは端的に言うと、商品やサービスについて変わった使い方をする人である。
別の言い方をするとちょっと変な人。フードトラックにおける私などもそうだ。
ユーザー行動分析において、そういう変な人から知見が得られることは多いので、
Mouseflowの分析でも観察対象にしましょうねという話をよくしている。
メンタリティをプログラミング
「俺ならできる」
という根拠なき自信が必要だという話を書いた。
それではサウナに耐えられそうにない時、
「俺はYoshimaru Familyだからできる」
「俺はAPOLLO11の一員だからできる」
と心でつぶやく。
「私」よりも「私たち」の方が力が湧くからだ。
私から私たちになる為に
先日能登の被災地を訪問した山本太郎氏が、被災地のカレーを食べたことで批判されていた。
凡そ以下の様なコメントであった。
「自分の人気取りの為に、生活もままならない被災地に押しかけて、物資の足りない中、被災者の食料を食べるなんて」
その論理はわかる。
東北大震災の時にはボランティアのそうした行為が社会問題化もしていたからだ。
しかし、私たちはその論理のみに従って生きてゆくべきだろうか。
私は山本太郎の支持者でもなんでもない。
災害時に、政治家が現地を訪れて「あなた達は一人じゃないよ。私たちは仲間なんだ。だから支援をするから待っててね」
と伝えることは意味があると思う。
政策の実行権限があるかないか置くにしても被災者に「希望」は必要だ。
それは食料ほど大事だとは言わないが、人間には絶対に希望が必要なのだ。
「あなたは一人じゃない。”私たち“なんだ」と伝えた後に、
食事をどうぞと言われて「いや、食事は結構です」と返したとしたら滑稽だ。
私から私たちになるには同じ釜の飯を食うということは必要ではないか。
正論は一つではない。
「物資が足りないから、政治家は被災者のカレーを食べるな」は一見論理として正論に見える。
「『あなたはひとりじゃない。私たちは仲間だ』と伝えることで希望を与え、同じ釜の飯を食うことでその感覚を強くする」ことも目的と手段が存在する時点で論理なのである。
論理や科学とは反証可能性のある仮説だからだ。