【考察】守るべきものがあると強くなるのか?
先輩方からよく言われていたのは、
- 「守るべきものが増えると力が出る」
- 「子どもが生まれると、その子の為に頑張ろうと思うよ」
みたいなmythの数々。疑い深い私は常に疑っていた。
「本当にそうかな?」「どういうロジックだろう?」「自分にも当て嵌まるかな?」
これだけ見るとサイコパスみたいだが、そう思ってきた。
仕事に対する熱意は家族の存在があってもなくても変わらないと。
ホームとバトルフィールド
社会学の世界では、ホームとバトルフィールドという概念がある。
以下はYoutubeで聞きかじった宮台真司さんの主張だ。
中国人やユダヤ人
血縁社会の中国人やユダヤ人は、例えお互い会ったことがなくても、越境してきた同胞に手厚いサポートを行う。自身のホームであるネットワークに貢献するのだ。
帰れるホームがあるからバトルフィールドで思いっきり暴れることができる。
アングロサクソン(西欧人)
アングロサクソンはファミリー、ファミリアという概念を非常に重要視する。エクステンデットファミリーという拡張された家族という概念もあるが、ファミリーこそが彼らのホームだ。
帰れるホームがあるからバトルフィールドで思いっきり暴れることができる。
かつて日本にあったホーム
ALWAYS3丁目の夕日の様な地域コミュニティである。故郷という民謡の3番には「志を果たしていつの日にか帰らん」という歌詞がある。これは地域コミュニティへの貢献という概念を現しているように感じる。
高度経済成長やバブル期には、カンパニーがその役割を果たしていたのだろうと推測する。1984年生まれの私には最早推測するしかない。
きっとカンパニーをホームにバトルフィールドで思いっきり暴れていたに違いない。
私が生まれた頃には、既に地域コミュニティという色合いは社会全体に薄く、核家族すなわちアングロサクソン化の中で育ってきたと振り返る。
欧米化の功罪
以下は私の主観であるが、我々はアングロサクソンほど、ファミリーやファミリアをホームにすることが出来ていない。そもそも”ファミリー”がなんであるかという倫理について、教育を受ける機会がほとんどなく、倫理規範を徹底させる為の(あなたを愛とともに見守り、観察する)GODもいないからだ。
核家族化が進む中で、働くお父さん達は変わらず会社にコミットし、コミュニティを失ったお母さん達の愛情は子どもに教育という形で向く。子どもは子どもで倫理がなければ、利害や快不快で動く。ステレオタイプだが、こうした”ファミリー”は中々一つになれないので、ホーム機能として弱く、安心してバトルフィールドで戦うことが出来ない。
自己責任
横道に逸れるが、自己責任とはアングロサクソン的な概念だ。
日本では、子どもは小さい頃は楽園で暮らし、中学生にもなると制服に押し込められ、徐々に社会のルールに従って生きることになる。子どもたちはピーターパン宜しく「大人になりたくない」と思う。
例えば米国では逆で、子どもは”不完全な大人”として扱われる。だからこそ、父親の権威などは日本の想像以上に強い。不完全な大人に対してNoはNoと突きつけるのだ。彼らにとって大人になることは「責任を伴うが自由になれること」に他ならない。
自己責任の本来の概念は「自由だよ!でも自己責任だよ」という割とポジティブなもので、日本的な「失敗したのはあなたの自己責任だよね」というネガティブなものではない。
守るべきものがあると強くなるのか?
この名代に対して、現状の考察は条件的にYesである、といものだ。
守るべきもの=子どもや家族がホームとして機能している場合、我々のバトルフィールドにおける戦闘能力は飛躍的に向上する。ただし、ホームが機能不全を起こしている場合はその限りではない。
生まれたての子どもや、幼い子どもの最大の能力は家族全体を”ホーム”に変えてしまうことではないだろうか。
この考察を経て、私個人としては、ホームを大事にして、バトルフィールドで思いっきり暴れてやろうと思う。